人が人生を終わるのに
深夜も早朝もない。
まして土日を外してくれるわけもなく、
「死」は
ある日突然やってくる。
ある日突然が「今日」だった。
2011年の3月11日。
この日は日本人にとって忘れられない日だ。
マグニチュード9.0という
とてつもない地震が発生したのだ。
東日本大震災である。
被害の広さは
太平洋側の東北全域、イギリスの広さでいうと、
ドーバー海峡からスコットランドほどの距離である。
今年の3.11は我が病棟が
新しく改装した「新病棟」に引っ越しする日だった。
3.11の日はいつも胸騒ぎがする。
何事も起こりませんように。とげばは思った。
その日の早朝、いつものように
夜勤の看護婦から引き継ぎの業務(ハンドオーバー)を聞いていると、
突然アラームが鳴り出した。
ナース、看護師などが一斉に緊迫した。
ある患者が発作を起こしたらしい。
応急処置、及び検査の器具が次々と運び込まれ、
すぐに救急車を呼んだ。
病院にいるのに、救急車?と思う方もいるだろうが、
異変が起きた場合、患者は皆、大きな緊急病院に搬送される。
そしてある程度元気になったら、地方のGP直轄の病院に回されるのだ。
それがげばのいる病院である。
しばらくして患者は落ち着きを取り戻したらしく、
ハンドオーバーは再開された。
ハンドオーバーが終わってすぐ、げばは婦長から呼び出された。
「げば、あなたはスーのアシスタントとして、8号室の患者をケアしてちょうだい。」
あれっ?8号室って空き部屋じゃなかったっけ?
小声でスーに耳打ちすると、
「さっきの患者さんがね、息を引き取ったの。だから8号室に移動されたのよ。
……遺体処理のためにね。」
なんと!
げばの胸騒ぎが的中したのだ。
最初の遺体処理体験
実はこの遺体処理の仕事は、
げばにとって2回目の体験だった。
最初の遺体処理は去年のこと、
NHS病院での基本的な処理は
体を綺麗に拭き、白装束のようなドレスを着せることである。
げばと、先輩看護師がペアになり、遺体を裸にして、綺麗に拭いていった。
しかしペアになった人が不慣れだったため、散々な初体験だった。
綺麗に拭いても、体を動かすとドス黒い緑の液体が口から出てくる。
その患者は死んでから、かなり時間が経過していたのだ。
先輩看護師は、「ごめんなさい、げば、私にはできないわ!」
なんと
彼女は口を手で押さえて、
逃げ出したのである。
途方に暮れたげばはナースに助けてもらい、
タオルや布で口を塞いで、汚れたシーツを変えて、もう一度、遺体を清めた。
しかし穴は口だけではない。
鼻、尿道、肛門、全ての穴から緑の液体が噴き出るのだ。
その度に新しいシーツに取り替えるのだが、その度に汚され、
白装束を着せるまで、1時間ほどかかったのを覚えている。
2回目の遺体処理体験
げばはベテランのスーと一緒に8号室に入った。
「この患者は自分でトイレにいけるほど元気だったのに」
私たちは突然の出来事に面食らっていた。
彼女はすぐに遺体を拭こうとはしなかった。
髪を優しくとかし、患者の目を静かに閉じさせた。
そして、患者の腕をとり、静かに時計を外した。
指輪も一つ一つはずしていった。
その中には指に食い込んでどうしても外れない指輪もあった。
スーはクリームを使って、
滑らせながら、指輪を回転させて、外していった。
スーはすべての貴重品をビニール袋に入れて、それらを詳細に記録していった。
そしてそのウィットネスが、げば。
看護師によっては、家族がくるまで何もせずに、そのままにしておくという人もいるが、
ある患者さんの家族が、
「遺体から指輪を取りたいけど、取れない。」という苦情を聞いたことがある。
なるほど、体が柔らかいうちなら、指輪なども外せやすいのだ。
死後、30分も経っていない遺体はまだ暖かく、体の器官も動いているので
ドス黒い緑の液体はでてこなかった。
白装束を着せ終えるのもスムーズにはかどり、
所要時間は20分。
やがてドクターも出勤してきて検証が行われた。
すべてのペーパーワークも終えて
後は遺族の来院を待つばかりとなった。
私たちは新しい病棟への引っ越しに忙殺された。
お昼休みに、
元の病棟に用事があって入ってみたら、
がらんとしてとても静かだった。
そこには
Matron(総合婦長)が1人遺体に付き添っていた。
静かな誰もいない古い病棟に
遺体だけあるなんて、
ちょっと鬼気迫るものがあるが、
彼女はいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、
私をねぎらってくれた。
マザーテレサの言葉
この病院に入院している人は、
いつかはなんらかの形で退院しなければならない。
元気になって家に帰る人もいれば、
面倒を見てくれる人が見つからず、
ケアホームに行く人もいる。
そして、この患者のように、
亡くなることによって「退院」することもある。
患者のほとんどは80歳以上、中には90〜100歳のお年寄りであり、
人生の終焉期を生きている人たちである。
げばが思い出すのは、有名なマザーテレサの言葉だ。
マザーテレサは有名な「死を待つ人の家」を建てて、瀕死の人間を集め、ケアーをしていった。
生きている間、汚い、臭いと邪険にされていた人が優しい看護を受け、死んでゆくとき、そのほとんどが「ありがとう」と礼を言い、中には微笑みさえ浮かべて死んでゆく。
「なんと美しい光景であろうか。」とマザーは言う。
1人の人間にとって、最も大切な瞬間である「死を迎える時」。
その時に「愛された」と感じられる。満足して幸福な気持ちで逝ける。
これ以上のケアーがあるだろうか?
ケアーの仕事は、重労働でお金儲けには程遠い仕事である。
けれど、
人1人の終焉を決める、「重要な瞬間」を作る、
せめてものお手伝いをさせてもらっている。
げばはそう思うのである。